萌えキャラ認定中:キャロ・ル・ルシエ
『ファイナル・リミット』相変わらずの長文です(汗々)。

ゼストは結局、自らの最期を選びましたか。うーん、それはちょっと不器用が過ぎる気がするなぁ。
美学を貫き通しすぎな感じですかね。ここは、賛否両論あってもいいかもしれません。個人的には、その目でルーテシアの無事を確認しないかぎり、ここでシグナムと戦うのは無責任じゃないかなぁ……と思うんですが、どうでしょうか。でも、敵(シグナム)を信頼してないかぎり、ここでこんな真似はできませんか。

その一方で、ヴィータは本当によう頑張りました。つか、全六課キャラの中で一番気を吐いて、一番カッコ良かったかも(笑)。旧作から引き続いた主要キャラの中では、ヴィータが一番上手く回ってましたし、スタッフ(都築さん?)に愛されてるのかなぁ。

でまあ、はやては結局、変身シーンが無かったわけで、そこは残念だったかも(爆)。きっと、DVDの映像特典に入れてくれるものと信じています(笑)。
さて、問題のなのは×ヴィヴィオの決着ですが……。

ここまで来て文句を連ねるのは無粋だとわかってはいるんですが、やっぱりあえて言わせていただければ、ヴィヴィオは不要だと思うし(この考えは変わりません)、もちろんなのは×ヴィヴィオの戦いにも興味が全く湧かないんですね。
「主人公」には大きく2種類があって、ひとつは物語の中核人物として主体的に事件に取り組み、真相に深く関わるキャラクターです。もうひとつは、物語の中核人物ではあるものの、物語の「語り手」別の言いかたをすれば「目」として、物語の進行を引っ張っていくキャラクターです。前者は一般的な意味での「主人公」(以下、「タイプ1主人公」と呼称)で、後者は『ハルヒ』のキョンとか『まなびストレート』の光香(みかん)、あるいは『ホームズ』のワトソン博士(以下、「タイプ2主人公」と呼称)とか言えばだいたいわかっていただけるんじゃないでしょうか。
ここは考えかたの問題なんですが、タイプ1主人公は物語の深層部分に関わるため、思想・心理面で物語と相互に影響を与え合う部分が大きくなります。少年ヒーロー物だとこれを「成長」と呼んだりしますが、物語を通したキャラクターの変化がひとつの重要なファクターになることが多いです。
タイプ2主人公の場合は、どちらかというと、傍観者あるいは狂言回しに近くなります。定義上の主人公とは別に実質的な主人公が設定されている場合が多く、彼らに与えられた役目は、キャラクターの変化よりもむしろ、彼らの「主観」による物語(実質的主人公)と受け手(読者・視聴者)との仲介です。
で、なんでこんなことを言い出したのかというと、なのはの扱いがどっちに入るのか、判断できないからです。前半は比較的タイプ2で流れたのに、中盤(ヴィヴィオが登場して以降)は明らかにタイプ1になってるんですよね。
『StS』において、いわゆる「成長」という意味での本質的な主人公はスバルだと思います。旧/新OPも、その点を強調しているのだと私は解釈しています。定義上の主人公であるなのはにキャラクターとしての成長の余地はほとんど無いのですが、後半は、「主人公」であるなのはの主観は、なのは自身の物語(対ヴィヴィオ)に移ってしまいました。一方のヴィヴィオは、成長するにもキャラクター的な背景が極めて薄いため、『A's』におけるヴォルケンズのような役割を与えることは不可能です。
『A's』の場合は、なのはと成長する側のキャラクターであるヴォルケンズは直接的に関係を持っており、またヴォルケンズ自身もはやてとの背景コネクションによってキャラクターが成立しているため、ヴォルケンズを実質的な主人公と考えれば、比較的きれいに役割分担が収まります。
ではいったい、『StS』の「主人公」は誰なんでしょう? 第25話を見て、それが全くわかりませんでした。
もっと簡単に言いましょうか。物語の傍観者2人がラス戦を戦っても、何も面白くないんです。
前にも書きましたが、ヴィヴィオの存在については、「なのはを物語の中核に引き込む」以外の役割が何も見えません。ヴィヴィオは、実質的になのはとしか関係(某TRPG的に言うと、「ロイス」とか「ダーザイン」ですな。キャラクター間の心理的コネクションと解釈してください)を持っておらず、スカリエッティとの関係性さえ定義上のものでしかありません(心理的コネクションが存在しないかぎり、キャラクター間の関係は定義上のものでしかありません。そこをどう表現するかが「積み上げ」と呼んでいる部分です)。
一方のなのはは、何度も書いてますが、フェイトやスバルとは異なり、スカリエッティ事件に対しては「機動六課メンバーである」という以外に、有機的な繋がりを持っていません。そのため、なのはとスカリエッティ事件を繋ぐファクターは、今回のストーリー構成でいくとヴィヴィオしかありません(個人的には、ここにスバルかフェイトをあてはめてほしかったんですが、そちらの設定はほとんど機能していないので無視します)。
要するに、今回、「スカリエッティ事件」というものをひとつの大きな流れとして捉えると、なのはもヴィヴィオも「物語の主演者」ではないんですよ。
何度も書いてますが、「主人公」という定義はたんなる定義でしかなく、大事なのは、「主人公」という役割をどう果たし、それが物語にどういう影響を与えていくかということです。それは、「主人公」に限った話ではなく、全ての「役割」に言えることです。
しかし、ヴィヴィオは「聖王の器」という役割に対し、実際にやったことと言えば、なのはを「ママ」と呼んだことくらい。なのはは、ヴィヴィオが居ないとタイプ1主人公として立場が確立せず、一方のヴィヴィオはなのはが居ないとキャラクターとして成立しない(なのは以外の有効な心理的コネクションが存在しない)ため、結局、この2人で世界が閉じてしまっているわけです。
でまあ、なのはが本当に唯一無二の主人公ならこれでもいいんですが、「じゃあ、スバルの立場はどうなんねん?」というところに話が展開するわけです。
つまり、なのはがヴィヴィオと共に狭い世界に閉じこもってしまったため、なのはがあくまでも主人公であるという前提に立つと、スバルの主人公性が曖昧になってしまうんですね。
いやまあ、スバルはまったくもって主人公なんかじゃない……と言い切ってしまえば、それはそれでアリなのかもしれないんですけどね。でも実際問題、スバルの役割を、ティアナやエリオと同格に位置づけられますか? 少なくとも、私には無理です。
やはり、空港事件でなのはに助けられ、憧れて管理局を志願した……というスバルの物語は、『StS』のベースにあると思います。「勇気の意味」「戦うということ」「守るべきもの」etc...そういったことどもを、時には衝突し、ひとつづつ積み上げていったのが前半のお話だと思っています。「魔法少女、育てます」という作品コピーは、スバルに対するなのは側の視点であり、この2つが物語の軸として立脚することに、とくに異論はありません。要するに、スバルが「成長する」側の主人公、なのはが「見る」側の主人公ですね。
ただ、これはあくまでも、なのはとスバルの間に結ばれる心理的コネクションが有効に機能している場合の話で、前述のようになのはが自分の世界に閉じこもってしまった現状では、「そもそも、この作品テーマは何だったの?」とか「なのはにとってのスバル、スバルにとってのなのはって何だったの?」という根源的なところまで話が戻ってしまいます。
結局、『StS』におけるスバルって何だったのかなぁ……? 物語の途中でギンガがさらわれて、ギンガと戦って以上終了。本当に、これでスバルにとっての「意味」を表現しきれたんでしょうか。
ここから先は本当に好みの問題でしょうが、やっぱり、強い人(なのは)が強い力でもって敵を斃すよりも、這い上がってきた人が最後の力で敵を斃すほうが面白いじゃないですか。それと同時、こうした演出は、苦労を強いてきたキャラクターに対してスタッフが与える正当な対価だと思います。
なんか第25話は、何もしてこなかった主人公がただ「強い」というだけでトリを取ってしまったように見えて、なんとも気持ちが悪かったです。
すみません。最後のほうは、完全な愚痴です。最終話を見ないと、完全な結論は出ないところです。でも、最終話の展開がどうなろうと、「……根源的なところまで話が戻ってしまいます」までの部分について、意見を変える予定は今のところありません。