《熱血バトル魔法アクションアニメ》
これが、『リリカルなのは』のコピーらしい。まあ、ジャンルとしてはぶっちゃけ、『美少女戦士セーラームーン』に(事実上の)端を発する《格闘魔法少女》アニメだと思う。
ところで、個人的に、魔法少女(魔女っ子)モノというのは元来、性善説に基づくべきだと思ってる。魔法を使って「悪を斃す」というわかりやすい展開は、本来は格闘少年ヒーローアニメの守備範囲ではなかろうか。そういう意味で、魔法少女が勧善懲悪の分野と安易に迎合するのは、はたして正解なんだろうか?……という思いがある。
『セーラームーン』が登場して以降、格闘魔法少女アニメが全て『セーラームーン』のパクリと認識されてしまった過去を鑑みても、本来踏み入れるべきでなかった領域に足を踏み入れたんじゃなかろうか?……とも思う。(このへんの話、前にも書いたことあるんだけど)
ここにひとつの答えを見せてくれたのが、『カードキャプターさくら』だった。
格闘の要素を持たせつつも明確な“敵”を作らず、性善説をベースに物語が語られていった。戦うべき相手は、“敵”ではなく“仲間(カード)”。《魔法少女》が、《格闘》要素を持ちながらも、本来のポジションをきちんと守った好例だと思う。
そして、《格闘魔法少女》アニメとして、これをさらに一歩進めたのが、今回の『リリカルなのはA's』ではないかと思う。
つまり、少年ヒーローものと同様に明確な“敵”を作りながらも、主要な登場キャラは全て性善説の上に成り立たせた。悪意ある敵(闇の書の改変部分)も最後に出てきたけど、完全にエキストラの扱いであり、本質的な“敵”ではない(闇の書に関る物語そのものは、第11話、はやてがリインフォースを解放した時点で全て解決している)。《格闘》要素を前面に出しながらも、《魔法少女》としての本質はしっかり押さえられていた。
私が何度か、『リリカルなのはA's』を《正統派格闘魔法少女》と呼んだのは、このあたりが裏づけになっている。
さらに、闇の書の改変部分は本質的な“敵”ではないから、F.E.A.R.ゲーム的に言うと(って、わからん人のが多いなw)、ダイスを振らずに演出だけで斃していいわけだ。だから、第12話では一度もピンチに陥らなかったし、逆になのはたちの魔法を演出する方向に力を入れることができた。
持論として、「ラスボスをただ強くすることだけが、RPGの演出手法ではない」というのがある。RPGのラスボス戦闘は、「とにかく敵を強くすればいい」なんてとんでもないことを考えてるクリエイターも居るみたいだけど、それは絶対に違うと思う。必要なのは、「ラストたり得る演出」であり、それが満たされていれば、ラスボスが最強である必要なんてどこにも無い。
この第12話は、まさにそれを体現しているような気がする。強い敵と対峙して、ピンチをくぐり抜けて勝利を掴むことだけが、格闘モノのクライマックスじゃない。盛り上がれば、ピンチをくぐり抜けなくったって構わない。闇の書との戦いは、まさにそれにあてはまる演出だったと思う。
前作は、プレシアとフェイトの過去という非常にセンシティブな分野に迂闊に足を踏み入れてしまい、プレシアが助かる道も捨ててしまったため、全体的に物語が萎縮してしまっていた気がする。おかげで、なのはとフェイトの友情物語という肝心のテーマがぼやけてしまい、「もうひと押し足りない」結末だと感じた。
その点、今作は、わかりやすい背景、明確な主義主張、確約されたハッピーエンドのおかげで、ヴィータやシグナム、はやても(物語の上で)のびのび動けていたし、結果として第12話を何の不安も無く楽しめたと思う。1クールという時間制約の中で物語を作るのであれば、今作の構成のほうが正解に近いのではないだろうか。
いずれにせよ、『魔法少女リリカルなのはA's』は、《格闘魔法少女》アニメとしてある種のブレイクスルーを達成したのではないか。“杖萌え”がクローズアップされてるところもあるけど、それ以上に、『なのはA's』は《魔法少女》アニメというジャンルに新しい流れを持ち込んでくれたと思う。
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